度々旅

いつでも心は旅の中

不妊治療はこれでおしまい

そう。ずっと書けなかったこと。

7年以上、自分の生活、心の大部分を占めてたことなのに、知人に読まれたら・・・と思うと書けなかった。そして、子供ができず治療を終えることになった場合、あとから読み返して、「あー、こんなに悩んでいるけれども、結局はできないんだよ」「希望を持ってる自分切ない」と思いたくなかった。

とにかく、隠れてこっそり、いい具合に終わらせたい(もちろん、子供を持つ形で)。それに、うまくいけば治療中の様々な思いなど、「そんなこともあったかも」と忘れてよいものだし。わざわざ、他人様に見られる場所に書くものでもないなと思ってた。

そんな感じで、口には出さないけれども、いつかはできるだろうと心の中で思ってた(こっそりと、自分にも気づかれないように)。でも、最初に子供をつくろうと主人と話した時、「できなかったらごめんね」と主人に言ったことを、いつも思い出していた。あれは、今みたいな暑い夏の日だったと思う。うまくいかないと、その都度「あの時そう思ったってことは、やっぱりそういうことなのかな」とも思った。

とにもかくにも、人工授精からスタートし、顕微受精まで。30代後半から7年くらいの治療。記憶も曖昧だし、話し出すとキリがないのだけれども、本当にたくさんのことを感じることができたこの経験を、自分の中だけで終わらせたくなかったので、ここに最後の数年のことだけでも、書いておきたいと思う。

 

【最後の2年のこと】

2019年の春、令和が発表された日に判定日を迎え、その後胎嚢が見えるも流産。そこで治療を終えるはずが、諦めつかず、そこからも毎月のように刺激をし、採卵を続けた。

2020年の春。コロナで世間が不安になる中。最後の採卵。けれども、凍結には至らず。

流産後2回目の採卵でとれて凍結していた唯一の胚盤胞を最後の卵と決めて、2020年夏に移植。だが、着床もせず。

その時点で、終わりにするはずだった。だから、判定日には5年くらい見ていただいた主治医の先生にこれまでのお礼をお伝えし、子宮内膜症など婦人科系の治療をこれからどうしていくか相談するべく、次回の診察の予約をして帰ってきた。

が、奇跡ってものが起こるのではないかとか、なんとなくお腹にも反応があったから、最初の判定日くらい乗り切れるのではないかと心の底の底では思っていたのかもしれない。

だから、帰宅してからじわじわきてしまい、数日したらネットで色々調べ始めて、45歳くらいまでは初産がいるではないか、産んで45歳だったら、少なくともあと1年は採卵続けてもいいのではないかと思いはじめ、漢方薬局に駆け込んでみたり、他の病院のオンライン説明会をふいに申し込んでみたり。自分が全く諦めることができていない、この状況を受け入れることができてないのは明らかだった。

 

そして、次回の診察日、まだやめたくないと先生に伝え、びっくりさせてしまった。

 

もうやりつくしたことはわかってる。医療的に本当に全てやっていただいた。ただ、自分自身を振り返ると、通院と仕事の両立は頑張ってはきたが、自分の体と向き合ったり、運動したり、自分でやれることを全部したと思えず。

ほんとであれば、自然妊娠をねらいながら、自分なりの最善をやりつくし、あと数年やり過ごし、あーダメだったねという形をねらいたいところだが、卵管を切っている私は治療を終えたらそこでおしまいになる。今はまだ、自分から「おしまい」にできないと先生にお伝えした。

でも、だからといって、他院にうつってまで治療を続けようとは思っていないとも伝えた。(結局申し込んだ、他院の説明会も参加しなかった)

 

その後、MRIなどとって、子宮のコンディションを確認した後、ある意味強引に、採卵をしてもらった2020年秋。

卵はとれたが、移植には至らず。主治医の先生に「もう十分頑張った。これ以上やるのは一人の医師としても忍びない」とまで言わせてしまい、次が最後の周期と約束し今年の冬に採卵。しようとするも・・・、採卵前に排卵

それが運命なのだと受け入れ、これで終わりと思っていたのだが、先生が「あと1回は採るとお約束しましたし」と言ってくださり、もう1周期トライすることに。

 

【最後の周期】

2021年3月に採卵。ここ2年で凍結できた卵は1つだし、正常受精の確率も低くなっていたし、空砲もあったので、採卵できただけで幸せだったのだけれども、まさかの胚盤胞凍結1つ。とても驚いて幸せだった。

それから3ヶ月。お腹の中のコンディションを整えた。この間、これまで見ないふりしていたこの先訪れる子なしor子あり2つの人生を想像し、どちらになっても自分の人生として歩けるよう、心のしなやかさを取り戻すことに努めた。

6月の終わりから移植の準備をして、7月に移植。まさか再びこの部屋に戻ってきて、培養士さんと会えると思っていなかった。これまでの感謝の気持ちを伝えることができた。

移植後1週間は、たくさん思い出をつくった。本当に楽しい時間だった。

そして、迎えた判定日前日。判定日の病院には1人で行こう。でも、主人と一緒に知りたいと思って、自宅で検査薬。まぼろしのような線。結局は、病院で検査してもらわないとわからないんだな・・・と。

判定日の朝、少し出血していたので、これはそろそろお別れかな・・・と。

そして、病院で検査。HCGは、1.3。着床はしてくれていた。ありがとう。

 

そんなわけで、これで不妊治療はおしまい。

手術で卵管を切っているので、治療を終えると同時に、自子を持てないことは確定。

 

最後の周期、全く後悔ない形で終えることができたことに感謝。刺激、夜中の注射、採卵、結果、ホルモン補充、移植などなどなど。1つ1つが感慨深く、病院の皆さんの温かさが身に染みた。諦めがつかない私に区切りを提示してださり、最後まで最善をつくしてくださった先生、病院の皆様に感謝。

それにしても、たくさんの人に支えていただき、優しさをもらった。採卵で感染もしたし、入院もしたし、手術もしたし。こんなに病院通いまくりだったのに、同僚の支えで仕事をやめずに済んだし。海外含めて、出張だって多少は行けたし。

私以上に恵まれた環境で治療をした人はいないのではないかと思う。

もちろん、我慢や、大変だったことはたくさんあった。いつでもスケジュール帳と睨めっこだった。やりたい仕事も、調整がつかなくなるのを恐れて無関心を装い手を引いた。いろんな理由をつけて、出張を減らしたり、会社から抜け出し、病院の待合室でPCを開いた。旅先のキャンプ場で注射を打ったり、出張先や外出先で座薬を入れたり。

そういえば、流産確定後、自然に流れでてきたのは会社で、先輩と立ち話している時だった(相手には気づかれていない)。とにかく、いろんなことがあったけれども、、、今はそんな自分を切ないとは思わない。ありがとうと思うだけだ。

 

そして、誰よりも主人に感謝。今まで楽しかったねと伝えたら、これからも楽しいよと言ってくれた主人。

治療の間、一方的に感情をぶつけたり、キズづけるような行動をとったり、たくさんしてきた。それでも、ずっと私を大切にしてくれていた主人。

なのに、子供をつくってあげれなかった。

ごめんねという気持ち、悔しい気持ちは一生消えないと思う。

それでも、とにかく楽しい時間をいっぱい過ごしていきたい。

正直、涙が止まらないのだけれども、これは後悔や悲しい涙なのではなくて、この長い旅を終えた感無量の涙なんだと思う。

 

 

またこれに関して書くかもしれないけれども、今日はこれにて。